本名 ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト
「ファン・デル・メール」を短縮してフェルメールとし、同姓同名の人がいたため「デルフトの」という意味の「ファン・デルフト」が付け足されています。
フェルメールはその生涯の歴史的な記述がほとんど残っておらず、プライベートはわからないことが多いのです。
フェルメールの生涯
1632年にデルフトで生まれ、43年の生涯のほとんどをデルフトで過ごしました。
1653年に裕福な家庭の娘カタリーナと結婚しますが、宗教の違い、フェルメールの父親に借金があったことなどから、カタリーナの母親に反対されています。
子供は11人以上いたと言われており、新婚当初を除きカタリーナの実家で暮らしていたことを考えれば、裕福な妻の実家の援助がなければ、生活が難しかったのかもしれません。
フェルメールの父親の死後、家業であった宿屋と画商の経営をしています。
画家の組合である「聖ルカ組合」の理事を務めていたことから、画家としても評価されていたと思われます。
戦争によりオランダ経済は低迷したため、作品が売れなくなり負債を抱えたまま43歳の若さで亡くなります。フェルメールの死後、妻カタリーナは破産しています。
フェルメール作品 盗難事件
フェルメールの作品は何度も盗難されています。
恋文
1971年、アムステルダム国立美術館からブリュッセルの展覧会へ貸し出し中に盗難に遭っています。
犯人は逮捕され、作品は発見されましたが、額縁からナイフで切り取り丸めてズボンに隠して持ち去っていたため、相当なダメージを受けていました。
切り取られて小さいサイズになってしまいましたが、時間をかけて修復され、今でもアムステルダム国立美術館で鑑賞することができます。
ギターを弾く女
1974年、ロンドンのケンウッド・ハウスから盗まれています。
犯人から要求は、ロンドンの刑務所に収監されているIRAテロリスト(無期懲役刑)を北アイルランドの刑務所の移送させること、要求が受け入れなければ作品を爆破すると書かれていました。
盗難から2ヶ月半後、匿名の電話によりロンドン市内の墓地に置かれているところ発見されました。
手紙を書く婦人と召使
1974年、ダブリン郊外の私邸ラスボロー・ハウスから、ルーベンスなどの作品とともにフェルメールの「手紙を書く婦人と召使」が盗まれました。
1週間後、IRAの活動家が別件逮捕され「手紙を書く婦人と召使」も発見されました。
1986年、再度ラスボロー・ハウスから盗まれました。
1974年に盗難に遭い戻ってきた作品が多数含まれていたため、被害総額は4千ドル以上だったと報道されています。
盗難から7年後の1993年、おとり捜査により犯人グループは逮捕され作品も発見され、犯人グループのボスはIRAの怒りをかったため惨殺され、IRAから犯行声明が出されました。
「手紙を書く婦人と召使」は、現物不在の状態でアイルランド国立美術館に寄贈され、
発見され返還後にそのままアイルランド国立美術館の所蔵となっています。
合奏
1990年、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館から、レンブラント、ドガ、マネなどの作品とともにフェルメールの「合奏」が盗まれました。
史上最大の美術品盗難事件で、被害総額は2億ドルとも3億ドルともいわれています。
これらの盗難絵画は、いまだに発見されていません。
フェルメール作品 贋作事件
現存する作品数が35点と言われているフェルメール。
作品が少ないのは、父親の跡を継ぎ宿屋と画商を経営していたため、年に2~3作しか描くことができず、また43歳という若さで亡くなったためです。
17世紀末に戦争があり絵画が売れなくなり、またフェルメール作品は個人所有が多かったために忘れられていきます。
19世紀になり17世紀のオランダ絵画が見直されはじめ、フェルメールも評価されるようになり、作品数の少ないフェルメール作品は、高額で取引されるようになります。
記録にあるけど見つかってない作品があるし、全ての作品がわかっているわけじゃないので、フェルメールの贋作を作って「発見」したことにして儲けようとする人が少なからずいました。
その中でもファン・メ―ヘレンは最も有名な贋作画家です。
メ―ヘレンは最初から贋作画家だったわけでなく、自分の作品が評価され個展を開くこともありましたが、当時ピカソなどの前衛芸術が主流で、写実的なメ―ヘレンの作品は流れからは外れていました。
メ―ヘレンの描いたピカソ風の前衛絵画を買いという人がいたときには、技術がなくても描ける劣った画家の贋作なんか作りたくもないと、キャンパスを引き裂いたと言われています。
メ―ヘレン自分の作品は評価されることがなくなったことを恨み、フェルメールの贋作を「発見」として世に出し、贋作を見抜けない批評家達に復讐をしたのです。
鑑定士や評論家達を騙して大金を手に入れたメ―ヘレンは、贋作を作っては売ります。
贋作がばれたきっかけは、ナチスの高官に渡ったメ―ヘレンの贋作「姦通の女」で、オランダの財産である絵画を敵国ドイツに売り渡したとして経緯を調べられました。黙秘を続けるメ―ヘレンは売国奴として厳しい取り調べを受け耐えられず、自身で描いた贋作だと告白しました。
しかし誰も信じてくれなかったため、フェルメールの作品だと認められていた「エマオの食事」も自身の贋作だと告白して、テレビカメラの前で贋作を描いて見せたため、ようやく贋作であったと認められたのです。
売国奴から一転してナチスを騙した愛国者をして有名になり、詐欺罪だけの禁固1年でしたが、刑期終了前に亡くなってしまいます。
刑期は1年と短かったので、生きていたら・・・人気画家となっていたでしょうか?
素晴らしい技術があるだけでは、評価されないのが美術界。
メーヘルンの贋作もフェルメールの作品「発見」であったために高額となったので、同じ絵画でもクレジットがメーヘルンだと酷評されていたかもしれません。
この贋作事件で思うことは、作品の価値は誰が決めるものなのか?
考えさせられます。
フェルメールの贋作「エマオの食事」は、オランダのロッテルダムにあるボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館に常設展示してあります。
コメント